トロフィーなんて要らない。
昔はそう思っていたし、実際、意識すらしていなかった。
ゲームはもっと自由で、もっと気楽で、もっと…無垢だったはずだ。
けれど今の私は、プラチナアイコンが輝くのを確認してから、ようやくコントローラーを置く。
誰に見せるわけでもない“実績”を集めることに、妙な達成感を覚えながら。
「なんでそんなの集めてんの?」と笑う友人の声は、今でも耳に残っている。
私は笑い返す代わりに、次のクエスト条件を確認する。それが業というものだ。
これは、トロフィーを目的とし、呪いと知りながらその達成に取り憑かれている一人の人間――
つまり、私の話である。
トロフィー厨、ここにあり
私はトロフィーコンプ派です
ゲームにおける「実績」や「トロフィー」は、あくまでおまけのような存在だと、かつては思っていた。
ストーリーを楽しむための道標でもなく、クリアのための条件でもない。
本来なら、意識すらしなくて済むような場所にひっそりと設置された、“実績”という名の隠し報酬。
……だったはずなのだが。
いつの間にか私は、「トロフィーリスト」を見ることからゲームを始めるようになっていた。
初回起動直後にチェック、終盤の前に再確認、エンディング後のやり残し探し。
トロフィーを確認せずにゲームを終えるなど、もはや“未読メールを残して寝る”ような違和感がある。
気がつけば、私のトロフィー取得率は常に80〜100%近辺。
“コンプ派”と名乗るに足る積み重ねが、無言のプレッシャーとして背後に立っている。
友人にはコンプ率20%台の人も多い
一方、私の周囲には“実績という概念に一切縛られない民”もいる。
ある友人など、名作RPGをクリアしてもトロフィー取得率が20%台。
調べてみれば、「最初の村を出る」で1つ、「ボスを倒す」で1つ……にも関わらず、それだけ。
なんならゲームを起動しただけの0%のゲームも放置されている。
私には我慢ならないことではあるが…。
聞けば「別に興味ないし、条件とか面倒くさいし」とのこと。
彼にとってトロフィーとは、画面の端で勝手に鳴ってる通知音のようなもので、意識する対象ですらないらしい。
私はその言葉に、うっすら羨望を覚えた。
いや、正確には“かつての自分”を思い出したのかもしれない。
なぜ我々は“実績”に囚われるのか
何故トロコンするようになったのか
トロフィーを集め始めた明確な“起点”を思い出そうとしても、実のところ曖昧だ。
ただ、最初の一撃は確かに、「なんとなく」で始まったはずだ。
たとえば、あるゲームで偶然「難関トロフィー」が取れた時。
トロフィー中毒者の先人に手招きされた時。
突然現れるアイコンと、あの独特の“ピコン”という効果音。
予期せぬご褒美に、ちょっと得した気分になった。
そこからだった。
他のゲームでも「何が取れるのか」を気にしだし、「全部集めたら達成感すごそうだな」と思い始めたのは。
……気がつけば、“トロフィーが全部揃っていないエンディング”には、どこか不完全燃焼の感覚が残るようになっていた。
まるで、料理の盛り付けだけ忘れたフルコース。味は最高なのに、何かが足りない。
いつの間にか、「ゲームを“遊ぶ”」ことと「実績を“埋める”」ことが、分かちがたく結びついてしまっていた。
トロフィーは目的か、達成か
ここで一つ問いたい。
「トロフィーとは、目的なのか? それとも“副産物”としての達成感なのか?」
もちろん、開発側の意図としては「やり込みの目安」くらいのものだろう。
でも、トロフィーを集めるプレイヤーにとってそれは、もはやゲームの最終目標そのものになる。
ストーリーの感動も、戦闘の爽快感も、最終的には“プラチナ取得”という一言に吸い込まれていく。
それはある意味、非常にシンプルでストイックな遊び方だ。
だが同時に、どこか“本来の楽しみ”をすり潰していくような感覚もある。
目的がすり替わっているのか。
それとも“本来の目的”が、最初から“実績取得”だったのか。
答えは出ないまま、私は今日もトロフィーリストを真顔でスクロールしている。
無垢なプレイと実績の呪縛
実はトロフィーを気にしていなかった昔の方が楽しかった
かつての私は、ただ純粋にゲームの世界に没頭していた。
「フラグ管理」も「収集率」も知らず、
ラスボスを倒せばそれで満足だったし、気に入った武器だけで最後まで戦った。
その頃のプレイには、どこか“自由”があった。
バグで進行不能になっても、
最終セーブ地点が遠いボスに勝てなくても、それすら思い出として消化できるほど、ゲームは私にとって広くて深かった。
でも今はどうだろう。
「最初に○○を倒すとトロフィーが貰える」と知っていれば、真っ先にそっちへ向かってしまうし、
「時限トロフィーがある」と聞けば、先に攻略サイトを覗いてネタバレを見ない程度に…やり直す前提で進めるようになる。
……楽しくないわけじゃない。
ただ、「素直に遊べていたあの頃」が、時折やけに遠く感じるのだ。
トロコンを始めてから変わった“ゲームの味”
ゲームの味が変わった。
素材は同じでも、調味料が増えすぎたのか、
それとも舌が変わってしまったのか――
以前なら「好きに遊んでエンディング」だったプレイスタイルが、
今では「まずトロフィーの取りこぼしを調べ、順序立てて攻略」へと変化している。
この変化を“進化”と呼ぶべきか、“劣化”と呼ぶべきかは分からない。
ただ、ゲームをプレイする前にWikiを開く癖がついたあたりで、
何かが確実に変わったと感じている。
効率を求めて、無駄を排除して、最短距離でプラチナへ――
そこにあるのは確かに達成感だ。けれど時折、その過程に“味気なさ”を感じる瞬間があるのも事実だ。
ゲームは自由であるはずなのに、
私が自分自身を“不自由な道”へ押し込めているのかもしれない。
やめられない、止まらない
それでも私はトロコンを続ける
ここまで読んだあなたは、きっとこう思うだろう。
「なら、やめればいいじゃないか」と。
実際、私自身もそう思ったことはある。
楽しくなさそうに見えるし、義務になっているようでもある。
コンプのためにプレイスタイルを変え、テンションを落とし、やりたくない作業までこなす。
それでも――やめられない。
そこにプラチナがあるから。
それを取った時の「ふぅ……終わった」の感覚が、あまりにも中毒的だから。
誰に褒められるわけでもなく、SNSで晒すわけでもないのに、
あの“魅惑の音”と共に自分に刻まれる達成の快感が、脳を掴んで離さない。
まるで、自分自身との静かな競争のようだ。
「ここまでやったなら、最後まで」と思うと、途中で投げ出す選択肢が消えていく。
そして、次のタイトルのトロフィーを確認している自分に気づく頃には、もう手遅れだ。
ゲームの楽しみと“コンプ病”の共存について
トロフィーを集める行為が“病”なのか、“信念”なのか、それは人によって違う。
私にとってそれは、もはやゲームの一部であり、
その快感と引き換えに自由を削っているような、そんな複雑な立ち位置にある。
ただ、すべてが“苦行”というわけでもない。
時に、トロフィーの存在が新しい遊び方のヒントになることもある。
普段使わない武器を使う理由になったり、スルーしていたサブイベントを体験するきっかけにもなったり。
つまり、これは“楽しみの再解釈”でもあるのだ。
不自由と引き換えに、別の自由を手に入れている――
そう言えるうちは、まだコンプ病も悪くないのかもしれない。
実績の先にあるもの:報酬か、空虚か
トロフィーという“デジタル報酬”の正体
プラチナトロフィーを取得しても、現実には何も起こらない。
SNSのフォロワーが増えるわけでもなければ、賞金が出るわけでもない。
「やったね!」と言ってくれるNPCが現れるわけでもない。
画面に浮かぶのは、ただ小さなアイコンと静かな通知音だけ。
それなのに、私はそれを得るために数十時間を費やし、
時には同じステージを何十回も繰り返し、
苦手な要素に挑み、興味の薄いモードすらコンプ対象にしてきた。
……なぜなのか?
その理由は明確ではないが、ひとつ言えるのは、この報酬は“外”のものではなく、“内側”に作用するということだ。
つまり、誰に見せなくてもいい、誰に褒められなくてもいい。
“自分の中にしかない基準”で、静かに「やりきった」と言えること。
それが、このトロフィー文化の正体なのかもしれない。
実績主義の快感と苦痛、その狭間で
実績を追い続けることには、確かに快感がある。
だがそれと同じくらい、疲弊と葛藤もある。
本当に面白いゲームを“作業化”してしまうこともあるし、
終わったはずのゲームが“終われない”こともある。
楽しみと義務の境界が曖昧になって、純粋さを少しずつ削られるような感覚。
それでも私は――
たぶんこれからも、トロフィーリストを開くことをやめないだろう。
報酬でも、空虚でも、
そこに“やりきった”と感じられる一瞬がある限り、
私はその先に手を伸ばし続ける。
それが、実績厨という種族の性なのだ。
終わりに
一つの種族、そう言っていいのではと思うほど…きっぱり分かれてますよね。
冒頭にあったように、私はトロファーです。きっと中毒者。
それでも私はどちらかと言えば「トロファー中級者」なのだと思っています。
全てのゲームを100%にしなければならない先輩、わざわざトロフィーレベルを上げるために格安のゲームや読むだけでトロコンできるだけのゲームを買う猛者。
流石に私は水増しをしたいわけではなく、やったゲームをやりこんだよという指標として集めている。
ただし、やりたいゲームがあったら「先にトロフィーリストを見る」ことから始め、「高難易度」の文字があるものはやらない。
どれだけ開発から販売を楽しみにしていたゲームであっても、だ。
私は技術に自信がないヌルゲーマーであり、PvPを毛嫌いしている一派だ。
もちろんオンライントロフィーなんかがあろう日には、そのゲームの存在を脳内から削除する。
ヌルゲーマーでありトロファーというのは意外と少ないのではないだろうか?
そして猛者にありがちな「100%で埋めなければならない」は半分当てはまり、半分違う。
例えばどうしても操作が受け付けないゲーム、DLCを買わないと100%にならないゲームは仕方ないと思っている。
昔はトロフィーを数個獲得していても、気に入らないトロフィーリストは削除できていた。
しかし削除できなくなってしまい、私のトロフィーリストは着々と汚染されていっている。
私はA型ではない。しかし少しばかり神経質なのだろう。
以前は100%ないし、DLCを除きプラチナが取れていたら満足だった。
でもトロフィーリストの削除ができなくなってから、私は少しずつ人間を取り戻し始めたのかもしれない。
「ゲームへようこそ!」の最初に絶対取れてしまうトロフィーを取ってしまうと、もうリストからは削除できない。
コンフィグで操作設定をできないゲームは、私は軒並み遊べないのだ。
そうしてトロフィー取得率1%のリストで埋まってしまう。とても悲しい。
友人に1人トロコン厨がおり、たまに私のリストを覗いてこういうのだ
「お、これクリアしたんだ!会長が短時間でクリアしたやつをなぞればコンプできそうだね!」
そういう人が居るからこそ、私はプラチナを獲得していないゲームは非表示にしたくなる。
……まぁ、最終手段は非表示にすればいいのだと気づいたのだが。
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