受け入れとか理解とか、肩の力抜けよ

「LGBTを受け入れましょう」──そんな言葉を見聞きするたびに、どこかモヤモヤする。多様性って、誰かが「許可」したり「受け入れ」たりするものなんだろうか?
当たり前にそこにいる人たちを、ただ「なるほどね」って思えたら、それで充分じゃないかと、ふと考えた。

「受け入れよう」の違和感

「LGBTを受け入れよう」というフレーズは、きっと善意から生まれた言葉だ。
差別や偏見をなくしたい、みんなが平等に暮らせる社会にしたい、という願いの表れだと思う。
だけど、そのフレーズを耳にするたびに、喉の奥に小骨が刺さったみたいな違和感が残る。
なぜなら「受け入れよう」という言葉には、“受け入れる側”と“受け入れられる側”という立場の差が透けて見えてしまうからだ。
まるで「こちらがOKを出してあげる」かのようなニュアンス。それは本人たちが生まれ持ったアイデンティティを、他人の“許可”で肯定する構造をつくってしまう。

「受け入れ」が前提の上から目線

「受け入れる」という言葉の裏には、「拒む」という選択肢を持つ側の意識が隠れている。受け入れるか、拒絶するかを決める立場にいる人が、“自分が上”であることを自覚しないまま口にするセリフ。
それが「受け入れよう」なんじゃないかと思う。
たとえば、クラスでいじめを止めるときに「○○君を仲間に入れてあげよう」と言う先生がいたら、その言葉は一見優しそうに見えても、「仲間に入れるか決める権利はこちら側にある」という空気を生んでしまう。
「受け入れよう」は、それと同じ匂いがする。

誰が誰を許しているのか?

「LGBTを受け入れよう」と呼びかけるのは大切な行動かもしれない。だけど、「受け入れよう」と声をあげることで自分が“理解ある人”として安心したいだけのケースもある。
私自身も、無意識に「自分は差別しない側だ」と思い込みたくて、「受け入れる」という言葉を使っていた時期があった。
でも考えてみれば、LGBTに限らず、障害、国籍、宗教、いろんなマイノリティを「受け入れる」なんて態度は変だ。だって、誰かの存在は最初から“許可”がいるものじゃない。
多様性とは、許可を出すかどうかなんて問いを超えて、最初から「ただ、ある」ものだと思う。

「なるほどね」と思うだけでいい

多様性を「受け入れる」という感覚にモヤモヤする理由は、そこに力みがあるからだと思う。受け入れるって、どこか「よし、自分は頑張って理解するぞ!」という大げさな決意表明に聞こえる。
けれど、多様性って本当はもっと軽やかに、「あ、そうなんだ」「なるほどね」で済ませられるものじゃないだろうか。

多様性は承認制じゃない

LGBTの人たちは、誰かに「生き方を認めてもらう」ために生きているわけじゃない。もちろん理解や共感は嬉しいだろうし、社会として差別や偏見をなくす取り組みは大切だ。でも、一人ひとりが自分の存在を「許してもらう」ために暮らしているのではない。
「多様性を受け入れよう」という言葉が善意であっても、それを当然のように求め続ける社会は、どこかで「承認がないと認められない」というルールを作ってしまいかねない。

「なるほどね」で済ませる軽やかさ

私は、「なるほどね」という言葉に希望を感じる。
知り合いや街で見かけた誰かが「同性パートナーと暮らしている」と聞いたとき、「ああ、なるほどね」と自然に思える感覚。深く理解しているわけじゃなくても、「あって当たり前のことだよな」と肩の力を抜いて受け止められるスタンス。
「受け入れる」という言葉が作る“頑張って理解するぞ!”感よりも、「へ~」で済ませるくらいの軽やかさが、結果的に多様性を自然なものとして定着させるんじゃないだろうか。
「なるほどね」の背後には、「理解しきれない部分があってもいい」「自分に直接関わらなくても気にしない」という余白がある。
むしろその余白こそが、多様性を支える大事な土台なんだと思う。

身近で気づく「なるほどね」の瞬間

「なるほどね」で済ませられる感覚は、遠い世界の話じゃない。
日常のすぐそばに、思ったよりたくさん転がっている。

ネットや街角にあるリアル

ネットのプロフィール欄で「LGBTQ+」と書いてある人を見たとき、「へぇ、そうなんだ」と自然に思えるか。店員さんの性と名前の響きが合わないように見えても、「あ、なるほどね」でスルーできるか。
それは決して無関心ではなく、相手を「特別扱いしない」という優しさだ。相手の存在に過剰に反応しないことが、「ただ、ある」ものとして認めることにつながる。

親としての心の揺らぎ

過去に私も母に言われたことがある。
「最近はこんな人たちがテレビにまで出るようになったのね」と。
心の中で不安を覚えたことがある。その時にはお笑いや奇抜な人扱いだったからだ。
時が立ち多様性と言う言葉が出てきたのはごく最近の事であって。
どんなに「多様性大事!」と言っていても、「我が子は普通でいてほしい」と思う親もたくさんいるだろう。
もし自分の子供がLGBTだったら?小さな子供を持つ親はそう一瞬でも考えた事があるかもしれない。
「まあ、我が子なんだしどうあろうと宝物に違いは無いよね?」
実はそう悩んだ時点で「多様性を“受け入れる側”に立とうとしている」と。
私たち夫婦は普通に男女で出会ってあなたが生まれたのよ。なんて。
それでも大切なのは、自分の中にある揺らぎを否定しないことだと思う。そして揺らいだ先で、「なるほどね」と思える余白を残しておくことだ。

多様性を「受け入れる」から「知る」へ

「受け入れよう」という言葉に隠れた上から目線に気づいた今、私は「受け入れる」より「知る」ことのほうが大切なんじゃないかと思っている。

知ることが、偏見を崩す第一歩

多様性に限らず、わからないものは怖い。
知らないことには、無意識に偏見を抱きやすい。だからまず「知る」ことが、自分の中の無意識の壁を崩すきっかけになる。
「知る」とは、相手を理解しきろうとすることではない。ただ「そういう人がいる」「こういう考え方もある」と情報として自分にインストールしていく行為だ。知った先に、「なるほどね」と思える余裕が生まれる。

多様性はただ“ある”ものだという感覚

多様性は、承認を得て存在を許されるものではなく、最初からこの世界に“ある”ものだ。特別に理解しようと肩に力を入れなくても、「なるほどね」と思えるだけで社会の空気はずいぶん変わる。
「受け入れるか拒むか」という二択を超えて、「まあ、そういう人もいるよね」という自然な感覚が広がってほしい。
それこそが「多様性を認める社会」ではなく、「本来の多様性」への一歩だと思う。

終わりに

正直、以前も行ったかもしれないが私は多様性と言う言葉が嫌いだ
だって本来、常に「多様性の中」に生きているようなものなのではないか?
昨今は多様性と言いつつLGBTを指して言ってるような感じがする。

本来は国籍や性別、そして趣味嗜好、宗教など…全てにおいてってハズではないのか。
それが今やLGBTなどの性別系にだけ言われがちだと思う。

変な横文字の言葉を作り、それを分かりやすく日本語化したのかもしれないが
言葉を最近は作り過ぎなんだと思う。
上記で言ったが、そもそも多様性なんて世の中に腐るほど存在していたのだ。
特に日本人だったら理解できると思うが、差別はダメですよ~ってやつ。
最近の子は知らないが、ある程度の年齢の人であれば親から教育を受けたはずだ。
例えば学校に外国人が転校してきて「わぁ肌黒い!」「目が青い!」と子供はつい少しだけ距離を置くだろう。中にはからかいを含めた交流をする子供も。
しかしその場面を親が見ていたら拳骨ものである。
「コラ!お友達なんだから仲良くしなさい!」
それと一緒じゃないのか?
「やーい!おとこおんな~!」「おかま~!」
「コラ!お友達なんだから仲良くしなさい!」
ちょっと違うが、基本的には同じことな気がする。

そのお叱りをしてくれる対象が親から世間に変わっただけなんじゃ?

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