現金で票を買うな、とは言わないけれど。

たった2万円で民意が買えるなら、私達って随分お買い得だ。
与党が「物価高対策」として打ち出した現金給付案は、なぜか参院選の前に、なぜか全国民を対象に、なぜか“非課税世帯には+2万円”という形で再登場した。
笑うしかない、と思ったけど、いや、もう笑ってもいられない。苦笑い。

あの手この手で配られるお金。
その優しさのタイミングが、いつも選挙とセットであることに、国民はもう慣れてしまったのかもしれない。
かつては給付金に喜んでいた私だけど、今は「減税」という言葉の方に、なんだか少しだけ惹かれる。
そう思うようになった理由を、今回は話してみたい。

かつて給付金信者だった私

コロナ禍のさなかに振り込まれた、あの10万円
正直、あのときの私は素直に喜んだ。家計が楽になったし、何より「国が動いた」という感覚がちょっとだけ嬉しかった。
テレビから流れる“給付金”の文字に、どこか安心感すら覚えた。
たとえ一時しのぎでも、国が何かしてくれている。それが心の支えになっていた時期も。

でも、いつからかその感覚が薄れていった。
給付の額が減り、頻度が不定になり、「この金はどこから出てるんだろう」と疑問を抱くようになった。
給付金の話が出るたびにどこか違和感のようなものが残る。
これでいいのか?」という思いが、テレビから聞こえる数字よりもずっと重くのしかかる。

当時の私が“給付金信者”だったとすれば、今の私は少し距離を置いた、元信者のような存在だ。
それでも否定はしない。あのとき必要だったことも、事実としてある。ただ、それがずっと続くのは違うとも思うようになった。

もらえて嬉しい、でもずっとは続かない

給付金というのは、いわば一発の安心だ。
その瞬間だけは確かに生活が楽になるし、冷蔵庫の中身も少しは豊かになる。けれど、問題は次の月も、その次の年もやってくる。
もらった金で今日を乗り切ったところで、明日からの支出は減らない。
むしろ、じわじわと光熱費や食費が上がっていく。
そんな現実の中では、2万円なんて湿ったマッチ一本のようなものだ。

そして何より、この現金配布が当たり前になってしまうと、人は期待するようになる。
「次はいつだ?」「次はいくら?」と。
それは国民だけじゃない。政治家もまた、次はいつ配るかを票読みの材料にするようになる。
本来なら制度の見直しや構造の修正に取り組むべきところが、“給付”という簡単で目立つ方法に逃げていく。その場しのぎの政策に、私達は少しずつ、じわじわと慣らされていく

もらえるものはもらう。もちろん私も、もらえるならありがたく受け取るだろう。
でも、「それでいいのか?」という問いだけは、どうしても手放せない。

減税という“地味な希望”

手元の現金より、未来の安心

ある時から私の中で「給付金」よりも「減税」という言葉の方が、ずっと響くようになった。
それは多分、生活を“守る”視点から、“続ける”視点へと、少しだけ意識が変わったからだと思う。

一時金は一瞬で消える。でも、税金が軽くなれば、その影響はずっと続く。
今月だけじゃなく、来月も、来年も。じわじわと効いてくる“目立たない恩恵”は、言い換えれば「見えない安心」だ。

減税って、派手さはないし、即効性も乏しい。
けれど、そこには“構造を変える覚悟”がある。消費税にしても、所得税にしても、それを軽くするというのは、国家の収入を見直すということだ。
給付のような“足し算”じゃなく、“引き算”を選ぶ政治。
その痛みを引き受ける意志こそが、本来あるべき責任の形なんじゃないかと、最近は思う。

派手じゃないから、注目されにくい。でも、地味だからこそ信用できる
減税は、言うなれば“未来への定期預金”みたいなものだ。利息は少ないけれど、着実に効いてくる。そんな政策に、私は今、かすかな希望を感じている。

税金という構造への疑問

「減税すると社会保障が崩壊する」
政府はそう言って、野党の減税案を一蹴してきた。けれど、その舌の根も乾かぬうちに「現金2万円配ります」と言い出すのだから、なかなかの離れ業だ。

もちろん、給付と減税では財源の使い方も仕組みも違う。
でも、どちらも“国民の生活を助ける”という点では同じはずだ。なのに、なぜか減税だけが悪手扱いされ、給付はやさしい政策として持ち上げられる。
政治に明るくない私も、それはずっと気になっていた。

そもそも、税金とは何のためにあるのか。
徴収される側としては、できれば少ない方がいい。でも、それが公共のインフラや教育、医療に還元されているなら納得もできる。
ただ、“選挙前だけ湧いてくる優しさ”を見ると、まるで税金が「集めておいて、人気取りに使うポイント」みたいに思えてしまう。

構造を維持するために払っているはずの税金が、構造を変えるためには使われず、人気取りにだけ使われていく。
その現状に、私は違和感を抱かずにはいられない。

政治が使う給付金、その「タイミングの良さ」

なぜ今?なぜ2万円?

2025年、またもや給付金の話が出てきた。しかも対象は全国民、1人あたり2万円
なぜ今? と思ったら、やっぱり「参院選前」だった。
しかも今回は“所得制限なし”で“非課税世帯には+2万円”。配慮というより、満遍なくウケを狙いにいってるように見える。

政府は「物価高対策」と言うけれど、その割には物価の上昇率や消費者心理と、2万円という数字がかみ合っていない。
何かの計算に基づいた額じゃなくて、“ちょうどいい人気取り”の金額に見えてしまうのが、悲しいところだ。

選挙と給付金のセット運用は、もう珍しくもない。
でも、それを当たり前に許してしまう空気が広がると、「困っている人に手を差し伸べる政策」が、「票を釣るための撒き餌」に変わってしまう。
そして、私達はそれに慣れてしまう。

政治がやさしくなるのがいつも選挙前だけなら、それはもう政策じゃなくて営業戦略だ。
本当に国民の生活を思うなら、選挙がなくても困っている人には手が届くはず。

減税は否定、でも配るカネはある

減税の話になると、決まって「社会保障が崩壊する」と言い出す政権幹部たち。
けれど、その口で「2万円配ります」は平然と発表できるらしい。減税はダメだけど、現金をバラまくのはアリ。この矛盾が、ずっとモヤモヤしている。
莫大なお金が出ていくのにね?

確かに、税収の上振れ分を原資にした給付は“臨時の還元”といえば聞こえはいい。
でも、それは“構造”を変えずに“表面”を取り繕う行為に過ぎない。
減税のように制度をいじる必要はないし、決定も早い。その分、選挙にはうってつけというわけだ。

問題は、その「決断の速さ」が減税や制度改革には向けられないこと。
給付金は即決できるのに、なぜ税負担の見直しには腰が重いのか。そこに見えるのは、“国民の暮らし”よりも、“支持率の維持”が優先されているという事実だ。

政治が“やらない理由”を並べているうちは、本当の意味で生活は変わらない。
そして、その“不自然な優しさ”を受け入れ続けている限り、自分たちの未来を手放しているのかもしれない。

私は減税派

感謝できない自分への違和感

もちろん、2万円もらえれば生活は助かる。
ただ最近は、それに「ありがとう」と素直に言えない自分がいる。
むしろ、「そういう形でしか関われない政治なのか」と、ちょっと冷めた目で眺めてしまう。

それは決してひねくれてるわけじゃない……多分。
ただ、繰り返される“優しさ”が、だんだん“操作”に見えてきたからだ。
その金は、私達が働いて納めた税金の一部
それをまた「返してやる」という目線で配られることに、どこか敗北感すら覚えてしまう。

だからこそ、今は“減税”という言葉に惹かれるのかもしれない。
それは制度そのものへの見直しであり、給付とは逆方向の信頼の表現だ
「君たちの稼ぎをもっと手元に残していいよ」という意思。それは、政治と国民の関係を少しだけフラットにしてくれる気がする。

選べる未来の方を選びたい

2万円の給付金に、反対するつもりはない。
けれど、その場しのぎの優しさよりも、私は“選べる未来”のほうに賭けたいと思っている。

減税は地味で、票になりにくい。けれど、その不器用さにこそ誠実さを感じる。
もしかしたら私達は、2万円で“疑問を持つ力”や“変化を求める声”を買い取られているのかもしれない。

「現金で票を買うな」なんて、今さら言うつもりはない。
でも、買われる側の私達が、それを自覚せずにいることが、一番怖いのだ。

最後に

コロナで給付金が出た時、私はたいそう喜んだ。まだ若かったからだ。
10万円で何を買おう? 給料1か月分みたいなものじゃないか!と浮かれていた。
けれど、特に大きな買い物をするでもなく、次の日にはその存在を忘れてしまった。
結局、銀行の奥深くに眠ったまま…たぶんいつの間にか支払いに消えているとは思うが、自分の意志で“放出”した記憶はない。

今、私が「減税派」になった一番の理由は、大人になったからだと思う。
何をするにも税が付きまとい、その額に頭を抱えることも増えた。特に、晩酌のときにそれを強く実感する。
おつまみを買えば10%の税がチャリンチャリンと積み重なる。300円で30円、500円で50円。それが数回重なれば、もう一本お酒が買える計算になる。
もしこれが月に一度の贅沢なら、気にも留めなかっただろう。けれど、二日に一度は買い物をする私にとって、それはもう“生活費”の一部ではなく、“生活負担”になっていた。

もちろん、これは晩酌が趣味な私の場合だが、旅行が趣味でも、フィギュア集めが好きでも、釣りを愛する人でも、感じていることは同じはずだ。
ちりも積もれば税になる」。そしてその“ちり”が、確実に私達の余裕を削っていく。

だから私は、減税を望む。
現金を一時的に配るより、毎日の買い物でちょっとだけ息がしやすくなる方を選びたい。
それがたとえ地味で、実感しにくくても。

それが、大人になった今の、私の結論だ。

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