一度でいい、政治家に“最低賃金生活”をしてほしい

政治家の給料が高いと聞くたびに、ため息が出る。
「まあ、責任ある仕事だし…」と納得しようとしても、胸のどこかでモヤモヤが残る。
子どもの頃に思い描いた“理想の政治”と、今の現実。
そのギャップに、今日もため息をつきながら、夕方のニュースを流し見る。

「給料なんていらない」って言ってた頃の私

子どもだった私は、無敵の理想主義者だった

子どもの頃、「給料なんていらない。政治家になってこの国を良くするんだ」って思ってた。
正義感だけで国が変わると信じていたし、テレビに映る偉そうな政治家たちより、自分の方がちゃんとやれると思ってた。あの頃の私は、どこまでも無知で、どこまでも純粋だった。

その発想には金も票も、現実もなかった。ただ「何とかしたい」という感情だけが先走っていた。でも、それがあったからこそ、社会に対して希望を持てていたのかもしれない。今思えば、無知って、ある意味すごい武器だ。

理想と現実の間で、大人は鈍感になっていく

でも大人になると、政治の仕組みも、現実の重さも見えてくる。給料が高い政治家にモヤモヤしながらも、「責任が重い仕事には対価が必要」というのも分かってしまう。このへんの葛藤が、もう完全に“大人”って感じで腹立たしい。

理想を語るほどに「それって現実的?」と冷やされ、綺麗事を言えば「世の中そんなに甘くない」と返される。そうして、いつのまにか自分も「政治家の給料?まあ必要だよね」と、誰かと同じことを言ってる。

でも心の奥底には、今もあの頃の私が「そんなの変えればいいじゃん」と言ってる気がする。

「高すぎる」と思いつつ「必要だよな」と思ってしまう矛盾

嫌味なほどの高待遇に、どこか冷めてしまう

政治家の給料、正直言って高すぎると思う。月に100万円以上の歳費、交通費、秘書の給料、宿舎までついてくる。働いてる人が搾り取られてる時代に、それかよってなる。

市民の生活はギリギリなのに、スーツ着たおじさんたちが涼しい顔で「国のために頑張ってます」と言っていると、どうしても皮肉を感じてしまう。
もちろん責任ある仕事だとは思う。でも、その責任感を実感させるような姿勢が見えないから、余計に響かない。

給料は必要、でも“ズレ”のままでは任せられない

けど、冷静に考えると、それくらいの金を出さなきゃ優秀な人材は来ないのも事実。民間の経営者だって、企業を引っ張るならそれなりの報酬がある。
世間では社長と呼ばれる人が高給取りだと「いいよな社長、俺たちは最低賃金なのにさ」とボヤいてるのを聞くことが多い。
もちろん私もバイト先で汗水たらした時代にはそう思っていたし、嫉妬や恨みの感情もあった
しかし、社長に近い職に就いた時に気づいたのだ。
もしも会社がダメになった時には、社長に全ての責任がのしかかる。バイトや社員は次の仕事を探すだけでいいのだが、社長はそうではない。高額な給料でウハウハだった貯蓄だってゼロ…いや、マイナスになる可能性だってあるからだ。
それを思うと政治家にだけボランティア精神を求めるのは、現実を見てない甘さなのかもしれない。

ただし、いくら報酬が妥当でも、感覚がズレてたら意味がない。「優秀」である前に「わかってる人」であってほしい。そう思うのは、ぜいたくな要求だろうか?

一度でいい、最低賃金生活をしてほしい

予算より感覚が足りてない

だからこそ、私は提案したい。政治家になる前に、一年ないし半年でもでいいから“最低賃金生活”をしてみてほしい。できれば、地方の空き家に住んで、公共交通機関と徒歩で移動。食費も日用品も全部最低賃金の中でやりくり。

この「ちょっと不便」な暮らしが、どれほど心を削るかを実感してほしい。制度の綻びも、生活のストレスも、理屈抜きで染みてくる。やってみなきゃ分からないものって、たくさんある。

地方で空き家になっている場所は、交通の便が非常に厳しいところもあるだろう。だから“給料内”で収まるのであれば軽自動車などを買ってもいい。そしてもちろんガソリン代もその中からやり繰りしてもらうが。

「かわいそう」はもういらない、「分かってる人」が必要

政治をする上で一番大事なのは、現実感覚だ。机上の理論じゃなくて、肌で感じた「これはキツい」という経験。生活に余裕がない状態で見える景色って、ほんとに違うから。

「弱者に寄り添う」みたいな言葉も聞き飽きた。ただ、“その世界を知ってるかどうか”の差は、思っている以上に大きい。
過去にキャベツの値段を聞かれた政治家は「500円ぐらいでしょ?」と返答していたのを聞いた事がある。しかし当初の値段はひと玉200円ぐらいだった。たまに激安スーパーに行っては「安いですね」なんて妙な視察もしていたはずなのに。

政治家だろうと民間人だろうと“身の丈に合った買い物”をするのだから、キャベツをいくらで買ってようと給料がいくらだろうと関係はない
しかし、国を代表して国民に“寄り添う”なんて言っているのであれば、国民の生活を知らなければならない。
自らは年収1000万2000万ないし1億だろうと、年収200万の国民の生活がどのようなものかは知らなければならない

だから私は、偽善じゃなく共感できる政治家を選びたいと思う。

選挙、期待はしてない。けど、私は行く

毎回失望しても、それでも行く理由

こんなことを書いてるけど、正直、選挙に行っても「どうせ何も変わらない」と思うことの方が多い。毎回、期待して裏切られて、疲れて、また投票所に向かってる。

それでも行くのは、自分が完全に諦めた人間にはなりたくないからだ。愚痴を言う資格くらいは持っていたい。黙ってると、「それでいい」と思われてしまうから。

選挙権を有した直後は、私も3度ぐらいは行かなかった。行っても無駄だと思っていたから。
しかし親に言われたことが理解できたのち、選挙に行くようになった。
「選挙行った?あらら、選挙に行ってないなら政治に文句言っちゃダメだよ」
当初はその言葉を一蹴し、国民なんだから文句言う権利はあると考えていた。そりゃあもちろん発言は自由だとは思う。
しかし大人になり、自分よりも10歳年上の低所得者である友人が愚痴をこぼしていた時に強く感じたことがある。
「俺、選挙一回も行ったことないんだよね。だって俺1人が入れても一緒だし変わらないし」
うんうんわかるわかる。
でもそんな人が“100人”集まったら?“1000人”集まったら?それはもう全てを覆せる量になるわけだ。私もかつてその一人ではあったが、友人に愚痴言ったり掲示板やSNSにダラダラ書き込むぐらいなら“一度は選挙に行ってみたらどうか”と私は思う。

おわりに

別にね、選挙してどこかを応援したいわけじゃないんですよ。私は。
熱心な信者でもないし「次の選挙はここに入れてね!」と言われれば逆にそこに入れたくなくなる天邪鬼ですし。
でも記事に書いた通り、政治に文句をつけたいなら意思表示をしてから…だと思ってます。
食事を作ってくれた親に対する文句と似てますね。
「たかし~今日はオムライスよ~」
「はぁ?なんで?」
「なんでって言われても、オムライスよ~」
「だからなんで?嫌なんだけど」
と言っているようなもの。
選挙に行くって言うのは意思表示、自分の気持ちをしっかり伝えるためである。
「最近オムライスばっかりだから、俺は肉じゃががいいな」
「あら~煮物って意外と大変だから得意なオムライスにしたいのよ~」
「つっても母さん、もう一週間連続だろ!」
みたいな感じにちゃんと対話になっていくと考えてるんですよ。

イヤイヤと駄々こねるだけなら子供だってできるわけで。そして子供に対して周りの人は「どうしたの?」と声をかけてくれる。
しかし大人が政治に対してイヤイヤ言ってても周りは無視するだけだ。
SNSを使うならハッシュタグとか有効活用したらいいじゃない、デモしたっていいじゃない。まずは意思表示から。

赤ちゃんのように泣き叫びながらNoを突きつけてもいいんじゃないかな。
…もしかして、大きな赤ちゃんが泣き叫びながらNoを突きつける行為が“デモ”と言うのだろうか?

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