ま、私も反応した人に反応する感じで反応してますが。
NHKの英語番組で、男子ふたりが「君ってハンサムだね」と言い合った。その後のMC・太田光のコメントは「これ以上進むと危険」。で、番組のX投稿は「なんだか危険な香り…」──これが“差別だ”と燃えて、NHKが投稿削除。
でも正直、その“危険”に過敏反応した人たちの方が、よっぽど「危険な匂い」させてない?
男子同士が親密だと即「同性愛を匂わせてる」と感じてしまう時点で、偏見の根っこはそこにあるんじゃないかって、私は思うんですけどね。
今回はWeb記事っぽくというよりも日記帳や感想文に近い形で書こうかなと。
その“危険な香り”にムズムズする人のほうが危ういんじゃない?
でも、私が感じたのは「差別」という言葉の重さじゃなくて、その“危険な香り”に即座に拒否反応を起こす人たちの方がよっぽど「危うい」んじゃないかという感覚だった。
たとえば、「男同士が親密にしていたら、それだけで何かを匂わせてる」みたいな読み取り方。これ、逆に“恋愛的な何か”を勝手に期待・連想してるわけで、それって発言者よりも読み手側の想像力が暴走してる証拠じゃない?
正直、「親密な男子=ゲイ的=危険」という連想が即発される社会って、そっちのほうが問題では。だって、“友情以上”を無意識に想定してるの、誰なんだよ。
NHKが炎上?でも“あれ”に傷つくなら人生つらそう
ネットって、ちょっとした冗談や軽口に対して「不適切だ」「配慮が足りない」と即・集団攻撃が始まる場所になってしまった。今回も例外じゃなくて、「親密な男子=危険」なんて、同性愛を揶揄している!と、怒号が飛び交った。
でも、率直に言えば──あれに傷つく感性って、けっこう生きづらくないか?
「配慮」や「尊重」って、相手をまっすぐ見ることから始まるもので、「これは地雷かも…」って空気を読みすぎるのとは違う。
言葉の端々に過敏に反応して、表現の自由ごと削っていくようなやり方は、むしろ“多様性の敵”になってるんじゃないかと思う。
笑いの中にある曖昧なグレーゾーン。そこにわざわざ「これは黒です!」ってラベル貼って、「黒はアウトだから削除!」って騒ぐ社会。
その先に残るのって、機械みたいな無機質なやりとりと、誰も喋らなくなる空気だけじゃないか。
だいたい、最近のこの手の炎上って“当事者”が騒いでるのではなくて“周囲の人”が騒ぎ立ててるだけな気がするんですよね。
多様性って、そんなに脆かったっけ
ここ数年、メディアも企業も「多様性を大切にします」と口を揃えて言う。けれど、ふと思うんだ──その“多様性”って、そんなに打たれ弱いものだったっけ?
誰かの冗談や演出に「これはマイノリティを傷つける!」と一発アウトを突きつける姿勢って、もはや“寛容”じゃなくて“過敏”だ。むしろ、自分たちが守ろうとしている「多様な価値観」を一方向に縛りつけてない?
ちょっとした軽口、演出、文脈。そのどれもが「これは配慮に欠ける」と断罪され、息の根を止められていく。本来の“多様性”って、いろんな価値観や表現が「共存する」状態だったはずだ。つまり、「こうあるべき」っていう新しい正しさを作って、それ以外を消すことじゃない。
もちろん持論を述べるのも自由、ただしそれを受け入れる受け入れないも自由なはずでは?
もしそれが“現代的な正義”なら、もうジョークなんて成立しないし、人間同士の会話もスクリプト付きでやるしかなくなる。
“親密な男子”=“危険”と決めつけたのは誰なのか
まず確認したいのは、NHKが「親密な男子ふたり」をどう表現したかじゃない。
それを見た誰かが、勝手に“恋愛的な意味”を読み取って、「あれは同性愛を茶化している」と決めつけた、その流れだ。
つまり、「危険な香り」という一文に“性的な匂わせ”を感じたのは、投稿者ではなく、読み手の側なんじゃないか?
これって、結局のところ「親密な男同士=恋愛関係っぽい」と反射的に思ってしまう感性の問題であって──それこそが無意識の偏見の現れなんじゃないかと私は思う。
しかも、こういう読み方ってBL界隈ではある意味“日常”だ。少女マンガや二次創作では、ちょっと肩が触れただけで「あわわ、危険な香り〜!」なんてノリが普通にある。
そのときは「キャー!」と盛り上がるくせに、リアルに似た空気があると「これは差別だ!」って、急に裁判官みたいなテンションになるの、ちょっと変じゃない?
“危険”って言葉が指してたのは、別に性的な何かじゃなくて、あくまでお約束的なボケ──つまり、男子の仲良しシーンでのおちゃらけにすぎない。
それを「差別の匂いがする」と騒ぐ感性のほうが、むしろ“性”に過剰に反応してる気がしてならない。
BLは許されて太田さんのジョークはダメ?その線引きは?
今回の件を見ていて、頭に浮かんだのはBL作品の世界観だ。
男同士がちょっと目を合わせただけで、読者の脳内では「これは恋の始まり…!」と脳内BGMが流れる。それを“尊い”と消費する文化は、今や市民権すら得てる。
でも、太田さんが「危険だなあ〜」と茶化した瞬間、それは“差別”になるらしい。
……え、なんで?
男子ふたりの親密さに勝手に恋の香りを感じて喜ぶのはOKで、そこにツッコミを入れるとNG。
この“線引き”って、誰が、どんなルールブックで決めてるの?
もしかしたら太田さんも純粋に“楽しんで”みていたかもしれないのに?
おまけに、BLではガチの偏見まがいな設定(例:ノンケが強制的に落ちる、上司と部下が職場で…とか)すら“ファンタジー”として受け入れられる。
なのに、リアルのテレビで同じような雰囲気が出た瞬間、「配慮が足りない」と糾弾される。
もはや問題なのは「表現の内容」じゃなくて、「誰が、どこで、どのジャンルでやったか」だけになっていないか?
そうなると表現の自由どころか、空気を読んで“正解”だけを言う世界になってしまう。
太田さんのジョークにしても、そこに“敵意”や“嘲笑”があったか?って話だ。
あれは、あくまで笑いのテンプレだ。それに「差別」というレッテルを貼ることで、かえって笑いと多様性のどちらも台無しにしているように思えてならない。
おわりに
番組は見ていないが、記事の内容を見る限り──少なくとも私は、なんとも思わない派だ。
それよりも、毎度おなじみの“過剰反応する過激派”に、そろそろうんざりしている。
声を上げている人が当事者だったらまだ分かる。けれど、仮にそうだとしても「そこまで?」と思ってしまう。
こんなことでいちいち目くじらを立てていたら、男子校の近くなんてうっかり歩けないのでは?
「あー!あの子たち肩組んでる…顔近い!キャー!」とBL好きが微笑んでいたら、彼女らにもこう言うのか?
「あんたたち、あの男子高生に“危険な香り”を感じてニヤけてるでしょ?それ、アウトですよ」って。
芸人だろうが、あるアーティストだろうが、ライブ中に男同士がキスする演出なんて今や珍しくもない。
それは“お約束”で、ファンも理解した上で見ている。
「ネタは好きだけどキスはちょっと…」なんて思ってる人もいるかもしれないが、だからって「差別だ!やめろ!」なんて叫ぶだろうか?むしろ、楽しみ方は人それぞれ──それでいいんじゃないのか。
第一、番組どころか“本人たち”がそれを売りにしている可能性だってある。
表立っては出せない“当事者”で、それでも何らかの表現として“お約束”をやっているだけかもしれない。本当のところは、本人にしか分からない。
今回で言えば、「ハンサムだね」と言い合った男子たちが提供側、太田さんが視聴者側だとする。
太田さんはただ感想を述べただけ。もちろん彼の芸風的に、わざと“そういう感じ”の発言をした可能性はあるが、それも含めて“演出”として成立していたのでは?
番組を見て「危険な香りだな」と思う人がいれば、「あら仲が良いわね」と受け取る人もいる。
私は多分、「へぇ、外国ってこういう表現がストレートだな〜。こういう文化差が英語学習のハードルに…」くらいしか思わないだろう。
それにしても、最近はあらゆることが“過剰すぎる”。
このままだと、番組も音楽も、発言も全部ダメになる。
「失恋ソングが美化しすぎ!いま泣いてる人もいるのに!」
「ドラマの俳優が美男美女すぎ!現実を見ろ!」
「エセ関西弁とか関西への差別だろ!」
──なんて声が飛び交う日も近いかもしれない。
ちょっと過激だったかもしれないけど、昭和~平成中期のテレビって、今よりずっと自由で面白かったなと思う。
当時だって「これはひどい」と思えば、苦情の電話くらいは入っていたはず。でも、今みたいな“排除”や“糾弾”のノリは少なかった。
嫌なら見ない──それで良かった。
声を上げること自体は大切だと思う。けど、その声の大きさと鋭さが、最近ちょっと“過剰”になりすぎてない?
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