誰かの口調で生きてる人たち

最近、妙に耳につく話し方がある。
動画で見たような口調、配信者の真似、SNSで流行った語尾──言葉のクセが、言葉として独り歩きしているような感覚。
本人たちはそれを「流行」だとも「模倣」だとも思っていない。ただ、無意識に“誰かの喋り方”で感情を表現している。
それがなぜだか、少し気味が悪いと思ってしまった。

言葉が“自分のもの”じゃなくなるとき

「最近よく聞くな」って思ったら、もう流行ってる

街中でふと耳にした言葉遣いが、「あれ、どっかで聞いたな」と思ったら、たいていもう流行っている。
動画配信者の語尾、TikTokで流行った言い回し、SNSのテンプレ返答──それらが日常会話に、じわじわと染み込んでいる。

しかも、それが若者だけじゃないのがポイントだ。
大人も、会社員も、時には教師や親ですら、自然とその口調を取り入れている。本人にまったく自覚はない。
気づかぬうちに、自分の語り口が“誰かの引用”になっている。これが今の言葉の風景だ。

口癖、語尾、声のトーンまで“感染”してる実感

感染って、なにもウイルスや風邪の話だけじゃない。
口癖や語尾、さらには声のトーンまでもが、まるでウイルスのように拡がっていく。
あの配信者っぽいテンション、あのTikTokでよく聞く言い回し、あのYouTuber特有の抑揚…街中の会話でそれらを聞くたびに、妙な違和感が胸をかすめる。

真似したくなる気持ちは、わかる。
テンション高く話せばウケるし、言葉を縮めれば共感されやすいし、流行りのノリに乗っていれば、浮かずに済む。
でも、いつの間にかそれが“デフォルト”になり、自分の思考や感情さえも、その“型”に押し込めてしまっていることに気づかなくなる。

言葉は“選ぶ”もののはずなのに、いつからか“感染る”ものになっている。
そこに、ちょっとした恐怖を感じるのは、私だけだろうか。

自覚なき模倣

「真似してるつもりはない」が一番やっかい

一番私が怖いのは、「真似してるつもりがない人」だ。
「こういう喋り方なんで」
「前からこんな感じですよ」
…でも、気づかないうちに誰かの口調が身体に染みついていることは、思っているよりずっと多い。

意識的な模倣なら、まだマシだ。
「好きな人の真似をしている」「この言い方がウケるとわかってる」という自覚があるなら、それはまだ“選んでいる”。
でも、無意識のうちに誰かの言葉をなぞっているとしたら? それはもう、自分の思考回路すら他人に明け渡しているようなものだ。

個性というより、感染。意思というより、習性。
そして厄介なのは、それを「自然体」と錯覚してしまう現象だ。
自分の声で喋ってるつもりが、いつの間にか“量産型の誰か”になってしまう。

誰かの言葉を通してしか感情を表現できなくなる

感情というのは本来、とても個人的で、複雑で、生々しいものだ。
でも今、SNSや動画文化を通じて、それを“既製品の言葉”で表現することが当たり前になってきている。
例えば、意味もなく「ワンチャン」と言い、悲しみを「メンタルやば」と縮め、愛情を「〇〇すぎて無理」で雑にくるむ。

便利だし、通じやすい。けれど、それって本当に“自分の言葉”なのだろうか?

たぶん、多くの人は「それで十分伝わる」と思っている。
でも、伝わることと、通り過ぎることは違う。
「流行りの語彙」を借りるたび、少しずつ“自分の感情の輪郭”が曖昧になっていく。
そのうち、自分の感情さえ誰かの言葉に“変換”しないと口に出せなくなる──そう考えると、ちょっとゾッとする。

感情までが「借り物」になる時代に、自分の輪郭ってどこに残ってるんだろう。

個性のはずが、コピーになっていく

オリジナルと思ってる言葉、実は“見覚えのある借り物”

“自分らしい言葉”のはずなのに、どこかで聞いたことがある
SNSのプロフィール文、日常の喋り、メッセージの語尾──意識してるかどうかに関わらず、驚くほど多くの表現が「前例のなぞり」でできている。
それを“自分らしさ”と呼ぶのは、ちょっと苦しい。

「自分の言葉を持て」と言われる時代に、実際に使ってるのは“よくある言葉”。
それはもはや、自分というフィルターを通さない、ただのコピー&ペーストだ。

真似が悪いわけじゃない。誰だって影響は受けるし、憧れからスタートするのは自然なことだ。
問題は、そのまま憑依されてしまうことにある。
語彙が他人のもので構成されていくほどに、自分の内面は空洞になっていく。

語彙の細さ=思考の浅さ、という現象が起きている

語彙が薄い人ほど、思考も浅くなっていく。これはある意味で当然だ。
細かい感情を表す言葉がないと、感じ方そのものが単純化されていく。
「ムカつく」しか言わない人は、苛立ちと怒りと絶望の違いを区別できないまま生きることになる。

そしてそれは、対話の質にも表れる。
自分の内側をうまく言葉にできない人は、他人の話にも雑な反応しかできない。
結果として、語彙の貧困は“コミュニケーションの衰退”にもつながっていく。

言葉は武器であり、感性であり、思考そのものだ。
それが“他人のお下がり”ばかりになってしまえば、自分という存在すら曖昧になる。

それでも自分の言葉でいたい

語彙は自分の“体温”を表すもの

言葉はただの伝達手段じゃない。
選ぶ語彙や、声のトーン、間のとり方。それは自分の“体温”みたいなものだと思う。
誰かのフレーズをなぞるのは簡単だ。でも、自分の感情を、自分の温度で言葉にするのは…少し勇気がいることだ。

言葉には、人格が滲む。
だからこそ、誰かの借り物ばかりでは、自分という存在がどこにも残らない。

真似ることと、憑依されることは違う

真似ることは学びだ。でも、憑依されることは思考の停止だ。
好きな配信者の言葉を真似してみる、流行った語彙を試してみる──それは全然いい。
ただ、それに染まりすぎて元の自分を見失ってしまうなら、それはもう“言葉の乗っ取り”だ。

誰の声で喋っているのか。
それを意識するだけで、言葉はもう少しだけ自分のものになる。

最後に残るのは、誰の声でもなく“自分の声”でいたいという話

日常の中で、無意識に借りてしまう言葉はたくさんある。
でも、せめて大事な場面では自分の言葉で、自分の声で語れる人間でいたい。
喜びも怒りも悲しみも、テンプレじゃない言葉で届けたい。

“誰かの口調で生きてる人たち”が増えていくこの時代で、
私は、私自身の言葉で、もう少し足掻いていたいと思っている。

最後に

最後にちょっとだけ、愚痴っぽい話をさせてほしい。

最近、友達との会話で「それ、誰の言い方?」って思う瞬間が、やたら増えてきた。
……いや、たぶん私も気づかないうちに、どこかで拾った言葉を使ってるんだと思う。
でも、それに気づいてモヤモヤするくらいの距離感は、持っていたいなって思ってる。

最初は1つ2つ、気になる言葉が追加されるだけだった。
でも、今じゃ半年に1つは“誰かの語彙”が上書きされてる気がする。
「ああ、また動画の見すぎで移ったんだな」なんて思ってる自分。もちろん、ちょっと引いてる

しかも、ただ使ってるだけならまだしも、「使い方がズレてる」とさらにモヤモヤする。

私の中で一番気になってるのが、「ワンチャン」という言葉だ。

もともとは「ワンチャンス」──つまり、一度きりの好機って意味だったはず。
「もしかしたらイケるかもしれない」、そんな一回限りの可能性を指す言葉だったはずなのに、今じゃ何にでも使われる。

その友人も、「ワンチャン今日ダメかも」とか「ワンチャン遊べる?」とか、まるで接続詞のように多用してくる。
最近じゃ街のあちこちから「ワンチャン」「ワンチャン」「ワンチャン」……って、かよ。

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