生理現象で線を引かない社会へ―教育を真面目に考える

「生理は自然なことなんだから、理解してよ」

このセリフ、耳にしたことがある人も多いんじゃないだろうか。確かに、生理現象についての理解が足りていない現実はある。
学校でも家庭でも、そうした知識が体系的に教えられることは少ないし、誰かが傷ついた経験を経てようやく“語られるべきこと”になるのが、今の日本社会のテンプレだ。

でも、「理解してよ」って、そんなに一方通行でいいんだろうか?
「私の苦しみを理解して」には、「君のことは理解しないけどね」が隠れていないか?

「理解してくれ」の裏にある不均衡

月経教育は必要、でも「性別限定」ではダメ

生理に関する教育が必要なのは、間違いない。
「恥ずかしいことじゃない」「タブー視をやめよう」というムーブメントが広がり、ようやく月経が“声に出せる話題”になってきたのは喜ばしいことだと思う。
だけど――なぜその教育が、いつも「女の子に向けて」だけ語られるのか。

女性の体の仕組みを知ることは、女性だけの課題じゃない
同じように、男性の身体や性についても、女性が知っておくべき知識だと思う。性的な話=下品、という刷り込みのせいで、私たちは「相手の身体を知らないまま」大人になっていく。理解すべきは“女性の辛さ”だけじゃない。理解されるべきは“男性の事情”だけでもない。

「女子だけ集めてナプキン配って、はい教育」じゃあ、いつまでたっても男女の線は引かれたままだ。

“生理現象”を盾にした一方的な理解要求は危うい

「月経は自然なこと。だから理解してほしい」
その主張に異論はない。自然なものに対して、無理解や偏見で傷つけるのは確かにナンセンスだ。
ただ、ここで引っかかるのは、“理解してほしい”が、いつのまにか“当然でしょ?”という無言の強制に変わっていく点だ。

じゃあ聞くけど、男性の“自然な反応”は、いつになったら理解されるんだろう。
朝起きたら勝手に“元気”になっていた――これもまた、生理現象だ。なのに、それは理解されず、時に笑われ、茶化され、恥ずかしさとして処理されてしまう。
女の子が「ナプキン買って」と親に言えるように、男の子が「俺、朝ヤバいんだけど」って言える空気、ちゃんとあるのか。

「生理は辛いから理解してほしい」には、「あなたの辛さには、ノータッチでいいよね?」という裏返しがついてこないか?
求めるなら、差し出さなきゃいけない。それが“対話”ってものだと思う。

生理用品の無償化、その光と影

無償化はご自由に、でも財源はどこから?

「生理用品は生活必需品だから、無償で提供すべき」
そう言われれば、たしかにもっともな話に聞こえる。生活に不可欠なものに、経済的な障壁があるのはおかしい――と。でも、その“正しさ”は、どこからどう実現されるんだろう?

無償って、誰の負担で成り立つのか?
どんなに正義の名のもとに行われる政策でも、どこかで何かを削らなきゃいけない。学校の備品? 給食の質? 教員の負担? それとも、別の社会福祉?

「助けてほしい」と言う声に応えるのは大事。でも、予算という現実を見ずに「もっと寄こせ」と叫ぶのは、ただのワガママにならないか。
私は無償化に反対しているわけじゃない。けれど、そこに至るまでの議論が“情”だけで突っ走っていないか、ちゃんと立ち止まって考えたい。

“困ってるアピール”と実際の消費行動の矛盾

SNSを眺めていると、時々目に入る。「生理用品が買えなくて困ってる」「学校や職場で支給してほしい」といった声。それ自体は否定しない。困ってる人が実際にいるのも確かだと思う。

でも、ふと投稿者のプロフィールを見てみると、髪は明るく染められネイルもバッチリ、ピアスもキラリ――その全部が悪いわけじゃない。けど、ちょっと立ち止まりたくなる。
そのSNSで発信している媒体ってなんだ?最新機種の高級品になりつつあるスマホ?
周りと合わせる事に夢中になり、自分の体の基盤に金を掛けず”周辺機器”にはお金を出す。

本当に困ってる人って、たぶん声を上げる余裕もない
ネットで「支援しろ」と叫ぶ余裕がある人が、本当に「支援が必要な人」なのか?
限られた予算を「声が大きい人」にばかり配るのは、それこそ逆差別だろう。

支援を訴えるときに必要なのは、「困ってる」と言うことじゃない。その“困り方”に説得力があるかどうか、だ。

生理コストを語るなら、男性側の日常も視野に

「生理は毎月来る。だからお金がかかる」
これはまったくもって正しい。でも、それを“女性特有の負担”として語るとき、視野が少し狭くなってはいないだろうか。

男性にも、毎日のように“処理”しなければならない人がいる。
朝の一発、夜の処理、時には外で思いがけず反応してしまうことだってある。下着がダメになったり、トイレで急いだり、精神的にも気を使う
中には学生時代に思いがけぬ反応をしたことでイジられトラウマになり、処理自体が億劫になってしまっている人もいると聞いた事がある。
これも、ある意味「日常的なコスト」なんじゃないかと。

「月経で出費がかさむ」と言うなら、じゃあ男性の日常は何なのか。
それぞれの身体に、それぞれの事情がある。比較して優劣をつけるものじゃないけれど、どちらか一方だけが“特別扱い”される構図には、やっぱり違和感がある。

本当に求められているのは、「どっちが大変か」じゃなくて、「お互いが少しずつ分かる」ことなんじゃないかと思う。

選択肢が増えた今、自分で選び学ぶ力も必要

ひと昔前と比べて、生理用品の選択肢は大きく広がった
ナプキン、タンポンだけじゃない。月経カップ、吸水ショーツ、布ナプキン――再利用可能なものもあれば、肌に優しい素材、デザイン性まで考慮された商品もある。
私がソレに悩んでいた頃には選択肢などほとんど無かったのだ。

軽い日と重い日で使い分ければ、コストもグッと抑えられる。
それを知らないまま「毎月だから高い!」と叫ぶのは、少しもったいない。

もちろん、誰かに教わってないと分からないのも事実だ。けれど、今はネットも動画もある時代。「知らなかった」で済ますには、情報へのアクセス手段があまりに充実しすぎている

「支援してほしい」と言うなら、まず自分にできる工夫は何か。
その問いかけを抜きに、声ばかり大きくなる風潮には、やっぱりモヤモヤが残る。

教育という「前提」が足りない

“性別”で分断されない教育を、小中高で段階的に

結局のところ、多くのすれ違いや摩擦は、「知らないこと」から始まっている。
知らないから誤解するし、知らないから気づけない。そして時に、知らないまま“善意のつもりで”誰かを傷つけてしまう。
じゃあ学ぼうと情報の海を渡り歩き、気づけば詳しくなったとしても間違いの思考に染まってしまう可能性だってある。

だからこそ、性教育はもっと早く、もっと段階的に行われるべきだと思う。
小学校では「体のしくみ」と「人との距離感」を知り、中学校で「性と感情の関係性」を学び、高校では「相手との関係をどう築くか」を考える。
男女どちらか一方に偏るんじゃなく、両方が“お互いの体”について知る機会を持つこと。

「女だから理解して」「男だから察して」
そんな無言のラベリングに頼らなくても済むように、知識という土台を作ることが、未来の“理解”を支えるんじゃないかと思う。

終わりに

まぁ…ここまで、いろいろ尤もらしく書いてきたけど
正直なところ、私自身もどこまで理解すべきかなんて分かってない。
ただ自分が正しいって顔して、相手の事情に目を向けない空気が、どうにも筆を執らせただけであって。

多分私は男女どちらの事にも知る機会が多すぎた。
元女で現男とか…世界人口の何割に値しているんだって。逆も居るけど。
世間で私の事を詳しく知らない人は「一般男性」だと思ってるはずだし、月経に悩んだ過去も全く知らないと思う。
そんな私が女性に対して「わかる!面倒だよね!」って言ったとして不審者扱いされるだけだ。
痛さを知ってるし、手間も知ってるし、用品を買いに行く恥ずかしさも知っているのに。

誰だって自分の大変さには敏感で、他人の事情には鈍い。鈍すぎる。
勿論それは私もなんだろうけどさ。
それを責める気はないけど、せめて「自分が求めてる理解と同じものを、誰かにちゃんと渡せてるか」ぐらいは、ときどき振り返りたいなと思う。

……とか言いながら、たぶんまた誰かの声にモヤモヤするし、ココでひとり反論しちゃうと思うけどね。
まぁそれでも、少しずつ。自分なりに考えて、言葉にして、こうして残していけたらと。

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