観光立国ニッポンの限界

観光客に水鉄砲を放つスペイン市民の映像、見ただろうか。そこまでするかと少し笑ってしまったが、内心羨ましさもあった。
今、世界の観光地では「これ以上は限界だ」と声を上げる動きが広がっている。
文化も生活も、観光という名のもとに押し流されていく現実に、きちんと向き合っているということだ。

日本の現状と無自覚な優しさ

インバウンド礼賛の影で

日本はどうか。東京、京都、富士山——インバウンドであふれる風景はもはや日常だ。もちろん、外国人観光客が増えること自体を否定するつもりはない。ただ、最近はマナー違反や騒音、ゴミ、軽犯罪の増加も無視できないレベルになっている。

SNSには「富士山の前で違法駐車して記念撮影」「お寺の境内でドローン飛ばす外国人」「温泉で全裸自撮り」などの報告が絶えず、観光地に暮らす住民の声はどこか置き去りだ。
それでも「観光で潤ってるんだから仕方ない」と、違和感や不快感を飲み込んでしまっていないか。その“がまん”の蓄積が、社会を静かに蝕んでいっている気がしてならない。

「優しさ」という名の無防備

それでも「日本人は優しいから」という言葉で片づけてしまっていないだろうか。
その“優しさ”は、時にただの無防備さになっている。相手に遠慮しすぎて、必要な対話やルールの主張ができていない。その結果、「何をしても許される国」という誤解を与えてしまっているのではないか。

「郷に入っては郷に従え」という言葉がある。だが、今の日本はその郷のルールを誰も明確に伝えようとしていない。
観光地で外国人に注意すると逆ギレされる、トラブルになったときに周囲が見て見ぬふりをする——そんな構図に既視感はないだろうか。
優しさとは、本来、相手を尊重するがゆえの境界線の引き方でもあるはずだ。それを示せていないのだとしたら、それはもう「優しさ」ではない。

経済の恩恵と地方の取り残され感

数字の裏にある不均衡

観光収入や訪日外国人の数が記録を更新するたびに、日本経済の成功のように報じられる。それは確かに事実だ。ただ、その「成功」は全国に均等に分配されているわけではない。
都市部、とりわけ東京・大阪・京都といった観光ゴールデンルート沿いに経済効果は集中し、地方はその恩恵をほとんど受けられていない。

さらに、観光バブルによって不動産価格や物価が上昇すれば、もともとそこに暮らしていた人々の生活はむしろ厳しくなる。住めなくなった町を離れ、地域の空洞化が加速するケースもある。観光というのは、やり方を間違えれば「一部だけが潤い、他は削られる」構造を生み出しかねない。

切り売りされる文化と暮らし

観光資源としての「日本らしさ」はしばしば商品化され、簡略化されていく。忍者体験、着物レンタル、侍ショー——そのどれもが悪いわけではない。けれど、そこで演じられるのは、しばしば観光客の期待に合わせた“記号としての日本”だ。

そしてその裏で、本来の文化や地域の営みが失われていく。観光客に写真を撮られるためだけの鳥居、インスタ映えのために塗り直された町並み。地元住民の暮らしや信仰、日常は、観光コンテンツに押し出されるようにして片隅に追いやられている。

文化は誰のためにあるのか。観光のためにあるのではない——その視点を、今こそ取り戻す必要があると思っている。

世界の抗議と日本の静けさ

欧州の“水鉄砲デモ”に学ぶ

2025年6月、スペイン・マヨルカ島やバルセロナでは、地元住民が観光客に向けて水鉄砲を放ち、「観光はもう限界だ」と抗議するデモが行われた。バナーやスモークを掲げ、ホテル前で声を上げる彼らは、単に観光客を嫌っているわけではない。住環境が破壊され、家賃が高騰し、地元の暮らしが追い出される現実に対して「自分たちの声を届けよう」と動いているのだ。

同じくヴェネツィアでは、ジェフ・ベゾスの結婚式に合わせて「No space for Bezos」と書かれた横断幕が掲げられた。街の存続が“富裕層向けイベント”にすり替わることへの違和感。それは「観光客が多すぎる」という表層的な問題ではなく、「誰のための街か?」という根源的な問いだ。

日本に“怒る自由”はあるか

こうした欧州の動きと比べ、日本ではインバウンド観光への抗議や批判は極端に少ない。被害や不満を感じている人はいても、「声を上げること」へのハードルが高く設定されているように感じる。

おもてなし精神の名のもとに、「不快に思っても耐える」ことが正しいとされてきた空気。その空気の中では、問題を提起すること自体が「場を乱す」「心が狭い」と捉えられがちだ。でも本当にそうだろうか。

“鎖国”という言葉をあえて使うなら、それは閉じこもることではない。いったん距離を取って、見直す時間を持つということだ。観光とどう向き合うか、私たち自身が主導権を握るためには、まず「怒ってもいい」「声を出してもいい」と認めるところから始めないといけない。

おもてなしの再定義

観光を通じて得られるものは確かにある。でも、それを受け入れるだけで満足していては、社会の土台が静かに崩れていく。経済だけが正義じゃない。数字だけで語れない“生活”があり、“文化”があり、“地域の誇り”がある。

「日本人は優しい」——それが武器になる瞬間もあれば、足かせになる場面もある。その違いを見極める視点を持たずに、ひたすら「歓迎」し続けていては、いつか“日本らしさ”そのものがすり減っていく。

いま一度、自分たちの街や文化を守るとはどういうことか、問い直してみたい。おもてなしとは、ただニコニコすることではなく、「ここにあるものを大切にしたい」と思える誇りと、それを守る覚悟のことではないか。

観光とどう付き合っていくのか。それは、未来の日本をどう育てていくかという話と、ほとんど同じことだと思っている。

おわりに

……って、こんなことをぐるぐる考えてたら、ちょっと疲れてきた。
別に外国人観光客が嫌いなわけじゃないし、観光そのものを否定したいわけでもない。ただ、なんかこう、モヤモヤするのよ。

「自分の国なのに、なんか居心地悪い」って感じ、最近ちょっと増えてない?
声を上げたら「神経質」って言われそうで、黙って飲み込む。でも、その積み重ねで、気がついたら自分の知ってる日本じゃなくなってたりするんじゃないかなって。

こういう話になるとそもそもで「観光地」で生きてる人と「その他」で対立してしまう気がする。
もっと詳しく言えば「観光業で稼いでる」人とその他。
観光地で暮らしたこともなく、旅行も修学旅行でしか行ったこと無い私から言わせると…「今まで観光価格で儲けたんでしょ?もうよくない?」とも思ってしまう。
昔の物々交換の時代にまで戻れとは言わないけど、日本の中だけでやっていくことって本当はできると思うんだ。
そりゃ勿論外資系とかは(詳しく知らないけど)困るとは思う。輸入輸出で成り立ってる会社や個人も困ると思う。
でももう1回だけ鎖国風の規制を設けて、案外国内だけでやってけるやん!みたいなのを味わっても良いと思ったんだよなぁ。
で、それが長く続くと国内の価格も適正になっていくわけで。そりゃ最初は大慌てだと思うけどね。
そして次第に「海外旅行者価格」を別途決めたらいいんじゃない?

私に資金とお金に余裕があったとして、行きたいところがあったとして、「外国人で溢れてるって聞くしやめとこ」となってしまう。

せっかく「マイナンバー」とかあるんだから、もっと有効活用すればいいのに。
それこそ日本人と海外観光客の区別ができる便利なものでしょ?
何故そこを活かさないの。
ま、私はマイナンバーカード作ってないから恩恵にあずかれないと思うけどね。

第一、ドンチャン騒ぎしてお咎めなし、軽犯罪行為をしてても「だめよぉ~」で終わるってどうなのさ?
日本人だったら交番に連れていかれたり捕まったりするようなことでも、外国人だと特になにもなしです。やめてね、だけなんて。
もっと日本も厳しくなって良いと思うんだ。ウェルカームだけじゃ本当に死んでしまう。
観光地及び国内で動画撮影し、内容が過激だったものや炎上目的、その国で不適切だと思われているものをアップロードしたものは罰則みたいなのって作れないの?
もしくは1度でも「故意」に迷惑行為を働いた場合は向こう10年の入国禁止とかさ。
それぐらいもできないの?外国人が来なくなるのを恐れてるの?それともアホな法案通す方で必死なの?
もっと国民が暮らしやすくする方向に進んで欲しいものだ。

そもそも日本人の国内旅行者すらバスに乗れないとかホテルが取れないとか、なんか違うだろって思ってしまう。
別に惑星規模で考えたら「日本」も「国」も誰のものでもないけれど、日本人が多く住んで日本人の文化が根付いているのなら、日本人を優先して欲しいと思う。
こんな状態が続くのなら、私は外国人観光客にNoを突きつけなければならなくなる。
不本意ではあるけど。

せめて、考える時間くらいは持ってもいいよね。
無理して笑わなくても、ちゃんと「嫌だ」って言ってもいいよね。
優しさって、そういう余白をお互いに許せることだと思うから。

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